20 September '2003 - 02:00 | 雑記 シェア
幼児らは、人との遊び方を最初から知っているわけではなく、実際に遊びながら学んでいくわけだが、一番最初に教える必要があることは、おもちゃを「シェア」することだ。 どうしたって、自分ひとりで独占したいおもちゃというのはあるのだろうが、すべてを独り占めしてはいけないし、それを教えることはすごく大事なことだ。とくに腕力があって何でも自分でコントロールしないと気がすまない子は、使いもしないおもちゃでさえも、人に触られるのを嫌がって独占したりすることがある。でも、まだ言葉を使えないくらいの幼児であっても、親が何を言おうとしているのかはそれなりには分かる。
だから、ちゃんと子供たちに、「おもちゃは『シェア』するのよ」と何度も何度も言って教えるのだ。そのうち、シェアしないと親に怒られるし、シェアするということがどういうことか、ちゃんと分かる。
しかし、今日、ふと思った。
シェアって、日本語ではどうやって教えるんだろう?と。
まさか、共有するのよ、なんて教えるのはさすがに無茶という気がしてしまう。実際には子供には難しい言葉なんてないし、「おともだちと『きょうゆう』するのよ」と教えてれば、そのうちちゃんと理解するだろうが、教える方としては、ちょっと抵抗があるかも知れない。
きっと、無難に、「独り占めしちゃダメよ。おともだちといっしょに遊ばないとダメよ」なんて教えるんだろうと想像している。
アメリカの母親たちは、簡単に「シェアよ、シェア」って言うところを、なんか面倒な感じがする。
この「シェア」という普遍的概念を一語で簡潔に言えて、しかも子供に対しても気兼ねなく使えるレベルの言葉がある英語と、概念自体をあらわす言葉が大和言葉ではなく、和製漢語なのかもともと漢語なのか分からないけれど、幼児相手に使うにはちょっと抵抗がある日本語。
いい悪いという話ではなく、こういう細かいところの積み重ねが、それぞれの民族の文化的背景を作ると考えると、非常に興味深いなあ、などと思った。
ふと思ったけど、幼児に使うのに抵抗感があるのは、大和言葉じゃないからだろうな、きっと。