ぼくに とっては、あたった よそうは べつに おもしろくも なんとも ないので、ぼくの みに おきた、ぼくが そうぞうだに しなかったことを れっきょして 2009ねんを しめくくりたい。
1. ふたりの ちちに なった。
こどもが すきだと おもったことは なかったけれど、きらいなので いらないと おもったことも なかったし、うんが よければ いつかは ひとの おやにでも なって、おやと いうのが どういうものか たいけん するんだろう、くらいに おもっていたから、げんじょうは そうぞうの はんいがい、という ほどでもない。だけれど、とくに よていが あったわけでも ないし、げんざいの せいかつスタイル というか かんきょうは、まったく よてい していなかった。
いまと なっては、かれらの いない せいかつは そうぞう するのも むずかしいし、こども がらみの じこや じけんは、 みるのも きくのも きがるには できなくなった。
こんなにも いとおしい そんざい ならば、もっと はやく かれらに あいたかった とさえ おもえる。
2. いみんに なった。
いちじてきな ガイコクセイカツ くらいの つもりで とべいしたの だけれど、すんでみたら ぼくみたいな いいかげんな にんげんには とても いごこちが よく、もともと それほど おもいいれもない にほんに かえる つもりは きが ついたら きれい さっぱり なくなっていた。
なんとなく だけれど、だいたい 5ねんくらい たった ころには、もう にほんでの せいかつが そうぞう できなく なっていて、それから すうねん たって こどもが Preschool に はいる ころには ここが じぶんの くに だな、と おもうに いたっていた。
いまでは、にほんは、そこく というよりも いぜん すんでいた くに という かんじで、とても よく しっているが ゆえに あらが めだって こまる。アメリカが このよに あって、ほんとうに ぼくは すくわれたなあ、って おもう。
3. シリコンバレーに ひっこした。
そうぞうも していなかった、ってほどでは ないけれど、2001ねんに ここに ひっこして きた ときは、そのご ここに ずっと すむとは おもっても みなかった。ひがしに 4ねん すんだので、にしに 4ねん すんで、そのつぎは Seattle か Portland か Austin か Boulder か、それとも どこかなあ、なんて おもっていた。
ちょうど 10ねんまえは、ニューヨークの こうがいで、いまは なき SOAP を つかって E-Commerce の エンジンと translation エンジンの API などを かいはつ しつつ、しのびよる dot-com bubble ほうかいの あらなみに のみこまれそうに なっていた。
ひがしかいがんの とうしか たちの まえで、API こうかい して うんぬん、などという ぼくの はなしは まったく りかい されない むりょくかんを かんじつつ、この venture の つぎは、せめて ぼくが なにを せつめい しようと しているかが わかる ひとたちに せつめい したいなあ、なんて おもっていた。
その かいしゃを たたむ けついを したとき、いち プログラマ として、なんとなく いつか いってみたいと おもっていた シリコンバレーに ひっこしてみる ことも きめたのだった。
4. ちちが なくなった。
ことしの はじめに ちちが なくなった。きょうねん 65。
としよりが さきに いくのは よの さだめ だし、まごにも めぐまれたし、ちょっと わかすぎる けれど それほど わるい じんせいでも なかっただろう とは おもう けれど、それは この さきの 10ねんくらいに おきる ことだと、かってに おもいこんでいた。
おととしの なつに とつぜん、まっきガンで よめい すうかげつって いわれた ときは さすがに ショックを うけたけれど、ぐうぜんにも とうきょうに しゅっちょう できる だいきぎょうで はたらいて いて、しかも とうきょうに いく ようじが いろいろと つくれる かんきょう だったので、おととしは なんども とうきょうに いったし、のべ 3かげつ いじょうは にほんに すんでいたと おもう。
そのかん、きんようの 6じに しんかんせんに のって じっかの とよはしに むかい、げつようの あさ 6じの しんかんせんで とうきょうに もどる、という せいかつを した。おとなに なってから、あれほど たくさん ちちと はなしを したのは はじめてだったけれど、とても いいじかんが すごせたので、ちちとは うまく おわかれが できたと おもう。
ガイコクに すんでいる み としては、これは とても こううんな ことで、しにめにも あえなければ そうしきにも でれない、なんて ことに なっても しかたない みぶんだと おもっていたし、そうしきで もしゅの あいさつが できたこと、その すがたを こどもたちに みせられた ことは ほんとうに うんが よかった としか いえない。
だいきぎょうで はたらく ことは、こじんてきに とても ひていてきで、いまの かいしゃを さったら もう にどと ないと おもっている けれど、いいことも あるんだなあ、と かんがえを あらためるに いたった。
5. そのた
あとは まあ、OS X に switch したこと、Google で はたらくことに なったこと、iPhone や twitter のことなど、こまかい tech よりの はなしは たくさん あるけれど、ぼくの じんせいを ふりかえるに、うえの 4つほどの エポックでも ないので ぜんぶ しょうりゃく。わわ
というわけで、よいおとしを、、って もちゅうは いわないもんだっけか。
]]>気がついたら11月は何も書いてないのだけれど、これはこの新しい日本語変換が出たら書かま文で書きたいと思っていたのでそれを待っていたら、12月になってしまっていたということで、これは弊社に謝罪と賠償を要求せねばなるまい。って、あえて長い文章を書いて、一発変換。素晴らしい。
実の母にさえひらがな分を書くようになってしまった僕にとって、かかま文を書くべき状況などほとんど存在しなくなってしまっているのだけれど、それでも、この新しい変換ソフトのすばらしさを体験しつつテストにも協力するために、かかま文を書いても「なんで?」って聞かれそうもない相手を選んでずっと書いてきた。わ。
が、もうそんなことは今日からはしなくてもいいと思うと嬉しい。
ちなみに、僕にとっての思い通りの日本語とは、だいぶ前から Hiragany.app で入力できているので、これは解決済みの問題なのだけれど、それは解決ではない、という至極まっとうな声も聞かれる、もしくはそんな声しかないので、特にマックユーザでことえりに辛い目にだけ合わされてきた人たちには朗報になるとおもう。
それから、平仮名分を読みにくいとかいう癖に、兵器で誤変換を繰り返しているどう仕様も無い連中がこの新しい変換ソフトを使って誤変換をなくしてくれるなら、変換ソフトを使えという言葉にも説得力が増すと思う。というこの文も誤変換を沢山含んでいますね。わわ。
わざと一発変換だけしかやってないので無茶といえば無茶だけれど、それで完璧にできるようになってくれないと二十二世紀を迎えるわけにも行かないので、開発者たちは頑張って欲しい。
さて、今日から僕が書かま文しか書かなくなると思ってほっと下向きもあるかと思うけれど、そうではありません。僕は最初から漢字を廃止すべきだとは一度も入っていないし、かかま文は二度と書かないとも入っていないし、今後も必要なときには書くと思うけれど、僕が日本語を書く用途に関しては九分九厘、平仮名分でわかち書きする方が優れているとの考えは全く変わってません。
読みにくいという声は未だによく聞くけれど、なんども言うけれど、それはほとんどなれだけのことで、なれれば大体書かま文の七割くらいの速度(当社比)で読めます。七割は遅すぎると思う人は、書くのは倍以上(当社比)早くなっているといいたい。
つまり相手の公立のほうが圧倒的に大事な場合においては、せっかく無駄に時間をかけまくって習得した「かかま文」というシステムを使うのにハヤブサ科ではないけれど、そんなのは論文とか、読者の多いブログを書く場合くらいだと思う。僕のこんなどうでも良いブログで、そんな高尚なシステムはいらない。感じは二年生程度とか言ってる外人のパパ友とかでも、読もうと思えば読める方が遥かに重要。
ちなみに、隼勝手なんだろうと思ったであろう、日本語が外国語の方のために言うと、やぶさかではない、の誤変換です。隼勝手というのは、ハヤブサ科、って書くべきだったか。ゎ。
というわけですので、今後もよしなに。わわ。
]]>とうぜんの なりゆきとして、スムーズに プロジェクトに さんか するためにも、いちど あって はなしを したいという ことになり、かのじょが Mountain View まで きてくれることになった。と おもいきや、やっぱり いけなくなったので きてくれ、という。えええ。
ちょうど おなじころに べつの プロジェクトの よていで Japan に いく よていが あったので、にっていが きつくて あまり のりきじゃなかったのだけれど、まあ、はなしの ネタにも なりそうだし、いってみることにした。
おおくの ばあい えいごが つうじるので よゆうで なんとか なると おもいきや、きほんは ドイツご なので、なにを するにも ガイコクに いるなあ、という きが してくる。
Swiss National Museum に いってみれば、すべての せつめいは ドイツご と フランスご の にほんだて しか ないし、ふつうの みずを かったら たんさんいり だし、でんしゃに のってみたら はんたい ほうこうに すすむし、うんよく ただしい ほうこうに すすんでも どの えきに とまってるか わからないし、えきの なまえが よめないし おぼえられないし、E って いってるのに I だと いいはるし、A って いってるのに E だと いいはるし、おまいら、ぼくを バカに してるのか、と。
ドイツご も フランスご も、ある ていどは はなせる ぼく なので、なんとか なってるけれど、ぼくの えいごりょくを 10まんと、したら どっちも 1 もしくは 0 くらいの じつりょく なので、やはり たいへんは たいへん。
まあ、そういうわけで、というか べつに そういう わけでも ないけれど、せっかく スイスまで きたし、ダンケシェンも いたに ついてきた ことだし、しゅうまつは でんしゃを のりついで マッターホン を みに いってきた。
かんそうを ひとことで いうなら、ロッキーマウンテンも ヨセミテも よゆうで かすむなあ、、、と。わ。
ほんとうに ことばを うしなう くらい きれいで ゆうだいで かんどう しました。やはり スイスの アルプスは だてじゃないね。はんぱない。いや まじで。そら、こんだけ すごければ チーズも うまいだろうよ、と。
どようびは てんきも こんシーズンで さいこうだと じもとの ひとが いう くらいに すばらしく、ごぜんちゅうは くもひとつなく、ごごに なっても マッターホンの ちょうじょうに ちょっと くもが かかる ていど。ほんと、さいこうの きぶん。
ふだんの おこないが ものを いいまくる しゅんかん ですねえ。
Hacking before Matterhorn
どうですか、おくさん。すばらしいでしょう。
と、マッターホンの ヒーリングパワーも つかって プログラムを かく のが しんの プログラマってこと。
]]>このへんには サブウェイそのものが ないし、つぎに よめの じっかに かえったときに、なごやほうめんに いって のせてもらえば いいだろう。なんて おもってたら、その サブウェイじゃなくて ファストフードの サブウェイの はなしだった。ああ。。
まあ、かなり やすいし、むかしは ときどき たべたけれど、さいきんは ぜいたくに なってしまって、もう まずい サンドウィッチを おいしく たべられなくなってしまった。なので かれが サブウェイを たべるとしたら、それは、じぶんで おかねを はらうように なってからだろうな。
サブウェイなんて ただの やすい サンドウィッチや だぞ、おまえが いっても べつに うれしいことは ないぞ、と いってみたら、どうやら がっこうの せんせいが バイソンの ウィングを たべたという はなしに きょうみを もったらしい。 バ、バイソンの ウィング。。。わわ
まあ、ぼくも バッファローと バイソンの げんみつな ちがいは よく しらんし、おおくの ひとは くべつ してない ので、かれが Buffalo Wings という たべものを バイソンの ウィングと りかい したのもの しかたない。
ニューヨークに バッファローという まちが あって、そこから きた ピリカラの てばさきの ことを Buffalo Wings と よぶことを せつめい したが、ちょっと いがい だったようだ。どんな ものを そうぞう してたんだろうなあ。
Buffalo Wings といえば、ぼくが アメリカじんに よく はなす「ぼくと Buffalo Wings」と だいする こばなしが あるのだけれど、それは かれには はなさなかった。その はなしの とうじょうじんぶつと じだい はいけいを しる ひと しか おもしろくない はなし なので、かれが おとなに なったら おしえて やろうと おもう。
]]>それは なにかというと、140もじ という せいげんで、ひらがなと かかまぶんでの ぎろんは どう なるのかな、ということ。あいては かんじを たくさん つかって むずかしい ことを いってる ふりを して みんなを けむに まこうと しているけれど、こくみんの せいかつが だいいちの ぼくは、もちろん twitter でも ひらがなしか つかわないので、かいわが なりたつのだろうか、って おもったのです。ひらがなせいかつと かかまぶんでは 140もじで かくことが できる じょうほうりょうには かなり さが あるからね。
そういえば @MichiKaifu も ブログにて、にほんごの ぶんしょうの ほうが じょうほうみつどが こい、みたいなことを かいていたけれど、それは かんじを つかっている から とか そういう ことでは なくて(いや、そうだけれど。ゎ)、そもそも にほんごは 1もじで 3バイト(ええ 2バイトでもいいですよ。ふるいなぁ)も つかっているのだから、あたりまえ なのですよね。たしか、おんせいでは えいごの ほうが じかんたんいの じょうほうりょうが おおいから、ビットたんいの じょうほうりょうは たぶん えいごの ほうが みつどが こいんだろうな と おもうけど、よく しらない。
なんにせよ、えいごは 140バイト なのに にほんごは 420バイト なんだから、たくさん かけて あたりまえ ってことです。えらそうに いうことじゃない。かけなかったら、そんな もじは むだすぐるので さっさと すてたほうが いい。まあ、にほんごは エラーていせいが ふくまれていて、はぬけ だらけでも すらすら よめるってのなら はなしは べつ だけれどね。ゎ
ちなみに twitter の 140もじ という せいげんが SMS の 160バイトの せいげんから きているのは いいとして、なんで にほんごでは 140もじ、つまり 420バイトまで ゆるされているんだろうか。ぼくの そうぞう だけど、にほんご 140バイト(つまり 46もじ)では、おおくの にほんじんには いみの あることが かけないから、じひの こころで 3ばいに ふやしてくれたんだろうね。まちがいない。
まあ、ぼくは ひらがなしか つかわないので かかまぶんの みなさんほど おおくの じょうほうを ぶつりてきに つめこめない けれど、それで ちょうどいいと かんじてる。
だいたい、かかまぶんで たくさん かいてある tweet って、ひとつの tweet に ぶんしょうが いくつも あって、なんか、うるさい。もう、ぜんぜん twitter じゃないって おもう。
なので、かかまぶんで 50もじ いじょう かかれている tweet は ツイート(わ)って よぶことに するね。わ
って、かいてたら なんと @chikawatanabe が おなじテーマで かいている!まじで!!わわ
]]>そして、これも よく しらないのだけれど、たしか、かぞくは らいげつの おわり くらいに かえってくる よていに なってたと おもう。あまりに さきの ことなので、なんど きいても わすれてしまうし、どうせ わすれてしまうので いちいち ききも しない。
ただ、なんどか きかされている、という きおくは ある。その ひづけは なんども きいてる はず だけれど、らいげつの おわり、という ふうに しか きおく できていない。ふしぎ。
ていうか、いま きづいたけれど なんで Google Calendar に はいってないんだ。SFO に むかえに いかなくても いいのかよ。
それにしても、めしたき老婆が いない あいだに ぼくが がし してしまう きけんを さけるため、まかない つきの いまの かいしゃに はいるように 老婆に せっとくされて、ほんとうに ほんとうに よかったと おもう。
きがついたら その かいしゃで いちねん ちょっとほど はたらいている けれど、きょねんの なつ どうよう、ことしの なつも ごはんの しんぱいを しなくていいのは ほんとうに すばらしい。
きょねんの なつは、ときどき まちがえて、ごはんを たべずに いえに かえってしまって、9じごろに がしすんぜん、という じこも なんどか あったけれど、ことしは もう なれたもので、そういう しっぱいは まったく ない。ちゃんと ゆうがたに ごはんを たべて、さくさく しごとを おわらせて、けっこう はやく かえってきてる。
だれも いない いえに かえってからは、ほぼ まいにち iPhone アプリを かいてるか、iPhone アプリを かいてるか、あいつとララバイを よんでいるか、iPhone アプリを かいてる、という かんじで、なんとか いきている。つか、さびしくて しにそう。
どのくらい さびしいかというと、老婆と こどもたちに あいたいが ために、にほんに しゅっちょう いれちゃおうかな、って まいにち ひゃっかいくらい しゅんじゅんしてるくらい。
なつの にほんに わざわざ いく ほど ばかばかしい はなしも ないので、もちろん ありえないけれど、それでも きよみずの ぶたいから パラシュートも つけずに とびおりちゃおうかな、って ほんきで なんども なんども むそうする くらいに、かぞくに あいたい。
あいたすぎて しにそう。
]]>ぼくの まえの しごとは デジタルテレビ(もしくは セットトップボックスなど)の ソフトウェアを つくること だったので、いまは ぜんぜん かんけいない しごとを しているとはいえ、ちょっと かんがい ぶかい。
デジタルへの いこうに ともない、いろいろと もんだいが ないわけでは なかったし、まだ かんぜんに おわった わけでも ないけれど、にほんでの それと くらべて はるかに スムーズに ことが すすんだ りゆうは たくさん あるだろう。それを いちいち ぶんせきするのは ヒョーロンカに まかせるけれど、げんばで みていて しょうちょうてきだと おもった じれいを いくつか かいておきたい。
いちばん おおきな じれいは、やはり Broadcast Flag が なくなったことかな。Broadcast Flag ってのは、かんたんに いうと コピープロテクトを じっそうする ための フラグで、この フラグが たってたら、でんぱを ろくが しちゃいけないよ、という ルール。
これが じっそう されていたら、ほとんど すべての ほうそうきょくが この フラグを たてる だろうから、デジタルかに ともなって ろくがが できなくなる、という せかいに なっていたかも しれないのだけれど、「FCC は、でんぱを どう つかうかを きてい できても、かでんメーカに あーしろ こーしろ という けんりは ない」と アメリカの Court of Appeals は いった わけ です。つまり、Broadcast Flag という しようを FCC が つくっても、メーカは それに したがう ひつようが なくなった。
こうして、HD の ちじょうデジタルほうそうは アナログじだい どうよう、ろくが は じゆうに なり、MPEG2-TS を そのまんま コピー できることに なった。
これぞ さいばんたいこく アメリカ。しびれます。
かたや ひがしの さいはて では、B-CAS などという いみふめいな コピープロテクト りけんだんたいが できたり、コピーワンス だか ダビング10 だか しらないが、とにかく げんじょうよりも ふべん にしか ならないことを ユーザに もんどうむようで しいるという。にほん らしい ですなあ。。。ゎ
ほかの いんしょうぶかい じれいとしては、ぼくが ちじょうデジタルを やっていたころ なので、なんねん まえだろう、7ねんとか 8ねんとか まえの はなし だけれど、その とうじ すでに デジタルせんもんの あたらしい ほうそうきょくが できていた、というのも ある。デジタルテレビ でしか みられない チャンネルが かなり まえから あった わけだ。
さらに、デジタルかの ひとつの おんけいとして、ぶつりチャンネル 1きょくで、ふくすうの ほうそうを マルチプレックス できるようになる わけだけれど、サブチャンネルが 3つとか 4つとか、おおいのになると 5つとか、そんな チャンネルも あった。もちろん がしつは ぎせいに なるけれど、そんなことは ほうそうきょくの かってだ。いままで ほうそう できなかった ものが ほうそう できるように なるわけで、デジタルテレビに なると、いきなり みられる チャンネルすうが ふえる、という じょうきょうだったわけだ。
かたや にほんでは どうだろう。もともと チャンネルが すくないうえ、リケンと かしている ほうそう じぎょう だから、デジタルか したからと いって、いきなり あたらしい ほうそうきょくが でてくる なんてことは おきる はずもない。また、デジタルか は ガシツが よくなる、という のを うりに しようと したため、かっきょくは かならず フルHD の ほうそうを しなくては ならず、また、それは アナログで ほうそう しているものと まったく おなじ ないようの ものを、なんて しばりまで ある。SD がしつで 4つの サブチャンネルを ほうそう、なんてことも できないし、すべて ワンセグ クオリティで 13チャンネル ほうそう、なんてことも とうぜん できない。ぎじゅつてきな もんだいでは なく、そういう きょうそうは ゆるさない わけだ。
そりゃ、デジタルいこう ふようろんも でたりするよなあ。なんのために デジタルか するのか さっぱり わからんもん。また リケンか あまくだりさきを つくるのが もくてきなんだろうなって、ふつうに おもう。
アメリカは そもそも サテライトや ケーブルで テレビを みている ひとが たいはん だから というのは じじつだけれど、そもそも なんのために やるのか という ぶぶんで こくみんの りかいが えられなければ いみがないし、ぎょうせいが むりを とおそうと しても、ちゃんと さいばんしょで けっちゃくを つけられるのが このくにの いいところだ。
ばかな こくみんどもの りかいを いちいち えている ひまなんて ないし、とにかく じぶんたちの じじょうを ゆうせんさせて じっし してしまおうと かんがえるとしか おもえない にほんの やくしょは ほんとうに たいした しくみだと おもう。おおごとに なりそうに なったら とりあえず パブコメと しょうする ガスぬきでも やっておけば いいだけで、なにが どうなっても、べつに じっし するだけってのは たしかに こうりつてきな たいどだと おもう。
でも、まあ、だから、べつに ほんとうに どうでもいいね、にほんの テレビの デジタルか なんて。
そもそも、だいがめんで ちゃんと みたいもの なんて スポーツと NHK くらいしか ないし、あとは ぜんぶ YouTube か ニコどうで いいよね、にほんの ほうそうは。ゎゎゎ
]]>takusan'no hitoni yondemorau nara somosomo hiragana gakusyuuga huyouni naru RO-MAji hyouki no houga iinodeha naika. RO-MAjiseikatu ni sinai riyuu ha nanika.
ii situmonn dane.wa
jituha bokuha RO-MAji demo zenzen iito omottemasu.wa
20nen kurai maeni RO-MAji sika tukaenai joukyoude GAIJIN ya zaigaihoujin tati to yoku tyatto siteita jikiga arunda keredo, saisyoha turakatta noni koremo naretara zenzen dekite bikkuri sita keikenga arimasu. seisintekina kabe ga nakereba koremo kekkou yoyuu de suguni naremasu.
demo, RO-MAji yorimo daibu kantan'na hiragana de sae, hotondono hitoha ukeirerarenai no dakara, ikinari RO-MAjiseikatu ha sasugani ukeirerareru hitoha hotondo inai desyou. douse ukeirerarenai nodakara dottidemo onajida, nante iu hitomo irundarou keredo.wa
toiu youna senryaku teki riyuu no hokani, ato hutatu hiragana no riyuuga arimasu.
hitotu ha, hiragana ha totemo nihonteki de utukusii to omou node, nihongoni kyoumiwo motta hitotatini ha sekkyokuteki ni benkyou site moraitaina to omotte iru koto. okasina hiraganamo aru keredo, hotondono hiraganaha hontouni utukusiisi kono kyokusenbi kosoga nihontekina bi dato bokuha omotteimasu.
daitai, hiragana to KATAKANA no kazu ha taisita kazu deha nai node, gakusyuu ga hituyou to ittemo sorehodo ookina syougaini narutoha omoenai. hiragana wo oboerunoga taihen dakara nihongowo akirameru, toiu hitoha son'nani inaito omousi, oboenaito ikenai tangono kazu to kurabetara kana nante issyunde oboerareru teido no koto desyou.
hutatume no riyuu ha, kore ha gijututeki na hanasi nanda keredo, kana to RO-MAji ha 1tai1 henkan dekiru node, soreha hyouji suru KURAIANTOno mondai darou to omotte iru koto.
tatoeba hiraganade hyouji sareteru keredo hontou ha RO-MAji de kaitearu,toiunode nan'nimo mondai nai to omou. toiuka DE-TA ha RO-MAji dakede iito omou. kono bunsyouha zenbu RO-MAji de kaitearu keredo, hiraganaseikatu taiou BURAUZA wo tukatteru hito niha hiraganade hyouji sareteru hazudesu.
kakamabun de onaji kotoga dekiru to subarasii noda keredo, kanzen'ni yarunoha monosugoku muzukasii si imaha mada dekinaito omou. yomenai namaewo kodomoni tuketyau hitomo takusan irusi keitaiso no kaiseki ga kakujituni ERA- naku dekiru toha omoenai. maxa keitaisokaiseki no mondai ha wakatigaki sae dounyuu sarereba iito ieba iinokamo sirenai ikeredo ne.
toiu wakede imadani hiraganaseikatu taiou BURAUZA wo tukattenai zan'nen'na hito ha sitano BOTAN wo KURIKKU sitemireba injane?
tte,kokomade ganbatte RO-MAji no mama yonda? oozon sitane. wawawa
よくみると、じゅうでんも されてない。げ。
いよいよ まぢかに せまった あたらしい iPhone の はつばいに むけて、この iPhone も おやく ごめんかと おもいきや、老婆の MacBook Pro に さしてみたら、ふつうに にんしきされる。え、ぼくの MacBook Pro が こわれたのかな。
おもむろに しょだい iPhone を さしてみると、なんと にんしき するではないか。どういうことなんだ。
さいきん やったことと いえば 10.5.7 と iTunes 8.2b を いれたことくらい なので、まずは iTunes 8.1 に もどしてみよう。って、ふるい バージョンには もどせないらしい。
しかたないので 10.5.6 に もどしてみる。が、なおらない。なんか、すぐには なおらなさそうな じょうせい。
とりあえず 老婆の Mac なら もんだいないので、さくっと Backup を とって、Restore モードで きどう。これは、USB ケーブルを つないだ じょうたいで Home と Sleep ボタンの りょうほうを Restore モードで さいきどうするまで ずっと おしっぱなしにすると そうなる。リセットしても、そのまま ずっと おしっぱなし。
で、5がつ 20にちの バックアップが あったので、そいつに もどしてみる。が、しっぱい。
An unknown error occurred (1611)
って いわれても どうしようもない。
というわけで、けさ、しごとに いくまえに、さくっと アップルじんじゃ ほんてんに いってみた。
ぼくの たんとうの ジーニアスは、なかなかの ジーニアスで、ぼくさまの いったことを すべて しんようし、おなじことを やろうとは しなかった。
よく いるんだよね。こっちが Restore モードで きどうしても 1611 エラーで しっぱいした、2かい やった、って いってるのに、おなじことを して おなじけっかを みて、じかんを むだにする ひと。まあ、いってることが しんようできない きゃくの ばあいは、いってることを きほんてきに むしして、ひつような ことを じゅんばんに やる いがいには、じかんを むだに しない ほうほうが ないんだけれど、きゃくを みて そういうことが できるかどうかが ポイントだよね。
ふつうに やれそうなことは ぜんぶ やってて スクショまで とって Flickr に うぷ しているような きゃくの いうことは、それなりに しんようするのが おとなってものだ。なにしろ、きゃくは この ぼくなんだから、いうことの ほとんど すべてが ただしいってのは、きほんちゅうの きほん。だいぜんてい なんだし。
で、かれが やったことを ここに ぜんぶ かいていくのは おもしろいんだけれど、ぼくは いちじかんも ついやして かれの やることを みたのだから、かんたんに おしえるわけには いかない。ぼくの じきゅうは 600ドル だから、さいていでも それくらい はらって もらわないと むり。
なので、けつろんだけ かきます。
かいけつほうほうは /System/Library/PrivateFrameworks/MobileDevice.framework を かんぜんに さくじょしてから、iTunes の さいインスコ。これ。
つまり、フレームワークの いちぶが こわれてしまっていたらしい。そして、バージョンじょうほうも さいしんの それに なっていたので、たとえば iTunes を なんど インスコしても つぎの バージョンの フレームワークが でるまで うわがき されない。だから、かいけつしない。というわけで、ぜんりょくで てで さくじょ。もちろん、ふずいする プロセスは ぜんぶ kill してからじゃないと、さくじょ できない。
というわけで さすがは ジーニアス。おみそれしやした。
なるほどねえ、MobileDevice.framework が こわれてたんだねえ。。。って わかるかよ、そんなこと。わ
USB の せっしょくが わるくなっていただけで エアで きれいに そうじしたら なおった、なんて いってる しろうとには かんけいないけれど、なにやっても なおらないという プロの ひとは、ぜひ ためしてよう。
]]>にほんの おおてメーカ きんむで ばしゃうまの ように はたらいて さくしゅされている エンジニアたちは、おなじ レベルの しごとを ふつうに ていじで やって、それでいて ばいほどの きゅうりょうを もらっている こっちの エンジニアの げんじつを しったほうが いい。
でも、こっちだと くじごじ で はたらけるとか、そんなことは じつは たいした もんだい じゃあない。
それに、たとえば スタートアップで ようきゅうされる しごとりょう というのは、アメリカ でも にほんでも まったく ちがいがない。
ぼくは、きぎょうするために アメリカに きたけれど、その スタートアップ では、まいにち 12じ すぎまで はたらいていたし、てつやも しょっちゅうしたし、そんな せいかつを 4ねんくらい つづけた。じぶんで はじめた かいしゃだから というもの あるけれど、いっしょに はたらいてた れんちゅうも みんな、しぬほど はたらいていたし、そういう じきというか タイミング というのは あるし、スタートアップ なんて、そんなもんだ。
ちなみに、りこんされなかったのは、ひとえに 老婆が ぼくを できあい しているからだ という りかいだけれど、あのときに ぼくを みすてないで いてくれたことの おんは いっしょうかけて かえしたいと おもっている。って、それは どうでもいいか。
というわけで、しごとの りょうは、アメリカか にほんか という もんだいではない。しごとに よる。だから、こっちのほうが いいよ、というのは、すくない しごとで もっと かせるげるとか、そういうことじゃない。
もんだいは、「しごと」の ゆうせんじゅんい だ。
にほんでは「しごとだから」という じゅもんが、あらゆることの めんざいふ として つかわれている。「しごと」が すべてに ゆうせんする のだ。
こどもとの やくそくだって、ゆうじんとの やくそくだって「しごとだから」といえば、なんでも ほごに できる。しごといがいの やくそくは ぜんぶ だ。
じゅぎょうさんかん だって、しごとが はいったら いけなくても ぜんぜん しかたがないし、さいばんいんに しょうかんされても、サーバ かんりしてたら しかたがない。
なんで こんなに しごとが いちばん だいじなんだろう。おかしいと きづかないのかね。きづいてるけど しかたがないのかね。それは きづいてないってことと なにがちがうのかね。
かぞく>ともだち>しゅみ>しごと、くらいの じゅんばんが バランス とれてると ぼくは おもうし、どうい してくれる ひとも おおいと おもうけれど、にほんでは、しごと>>>こえられない かべ>>>しゅみ>ともだち>>かぞく、くらい じゃないだろうか。
ほんと、しごとだから、なんなんだろう。
へいじつの ひるすぎに むすめの ようちえん の Dad's Day に さんかすることが、「しごとだから」という いみふめいな りゆうで できないなんて、ほんとうに くだらないし、そんな しゃかいは ほろんでよし。
って おもわないのかな。おもわないから こうなんだろうね。
]]>ひらがなせいかつ を はじめてから だいぶ たっていて かなり めが なれたし、しんりてきな ていこうも まったく なくなった ぼく ですら、よみやすさの ひかくをすれば、あっとうてきに かなかんじまじりぶん (いか、よくつかうのに ながくて よみにくいので、かかまぶん と よぶことにします。わわ) の ほうが よみやすいと かんじるのだから、さいしょから うけいれる きが まったくない ひとたちが、そう いいたくなる きもちは 120% りかいできる。
すこし あたまの おかしい ぼくだけが こういう はためいわくな ことを かってに やるのなら まだしも、なにか しんえんな いとがあるに ちがいないと かんちがいした おひとよしたちが こんなくだらないことを まねしはじめては たまらないと、ないしん やきもきしている ひとも いるかも しれない。
でも、ひらがな だけで わかちがき されている こういう ぶんしょうを よめない ひとと、ふつうの かかまぶんを よめない ひとと では、どうかんがえても こうしゃの ほうが たくさん いると おもうので、ひらがなだけだと よみにくいと いっている ひとの りくつは、いわゆる 「強者の論理」じゃないのだろうか、という ぎねんが ぼくには ぬぐえない。
ぼくは つごうのいい ぎぜんしゃ なので、きづかないうちに おまえは じゃくしゃを むししているのだと、ひと(=じぶん)に いわれたら、ちょっと きずつく。しってて やっていることなら、いくら ひと(=じぶん)に してきされても「ええ そうですが なにか」と ひらきなおれる のだ けれど。
ぼくは これまで、かんじが よめない ばかは なにも よまなければいいと おもってきた。わいせつ という たんごを わざわざ ひらがなで かくなんて、ばかも やすみやすみ いえ、と おもってきた。じぶんが おおくの かんじを すらすら よめる からだろう、もんだいいしきは ほとんど なかったし、なんなら かんじを つかうべき りゆうを たくさん ひねりだして、かんじぼくめつうんどうの ねを たやしておくか、くらいの かんかく だった。
でも、ぼくが かいている ことを、こどもたちが きょうみぶかそうに ながめつつも ほとんど よめない という げんじつを みて、なんのために よめなくする ひつようが あるのだろうか、と おもうようになった。ひらがなで かけば、すくなくとも よめるし、よもうとするのに。
おとなというのは ほんとうは じぶんかってで とんでもなく ばかだ、ということが ばれてしまっては たいへんだから、あえて よませないために そうしよう、というのならば すじは とおる。でも、そんな いとは ないのだとしたら、ぜんぶ ひらがなで かいてあげて、だれでも よめるように したらいいんじゃないのだろうか。
もちろん ひらがなで かかれていれば こどもでも すべて りかいできる ということには ならない。この ブログに ぼくが かいている ていどの ないよう ですら、ぼくの こどもたちが りかい できるように なるまでには、まだまだ なんねんも かかる。
でも、よめさえすれば よもうと するかも しれないし(じっさい、よもうとして、「ぶんしょう」って、なあに?みたいに たくさん きいてくる)、よめさえすれば、じしょも ひける。
かかまぶんを よむためには、かんわじてん(もしくは けいさんき) が ひつよう だが、かんわじてんを ひくのは、おとなでも かなり めんどうくさいし、そこまで して よまないと いけないと いわれたら、だれも よまない。にほんを けんきゅうしている ひとや、ジャパンで くらしてみようと おもうくらいの すいきょう なら いざしらず。
また、ふつうの かかまぶんは、めが みえない ひとや、おとが きこえない ひとには、とても むずかしい。てんじは きほんてきに かな しか ないし、つかっている かんじを せつめいを しながらじゃないと いみが わからない ような どうおんいぎごが たくさんつかわれている ぶんしょうは、おとだけ きいても りかいするのは とても むずかしい。
ひらがな だけで ぶんしょうを かくためには、つかうことばを えらぶ ひつようが あるけれど、そうすることで、てんじ にしても テキストスピーチ にしても、そういうものの ほじょが ひつような ひとたちにも あつかいやすい ぶんしょうになるし、こどもや ガイジン にも よみやすい ぶんしょうになる。
こじんこじんが そんな ことを するよりも、すべて けいさんきで じどうてきに わかちがきと かなへんかん できるようにしたほうが、すでに そんざいしている ぼうだいな ぶんしょを あつかえる ようになるのだから、どりょくするなら そっちのほうが こうりつが いい、という いけんは わかる。そのどりょくは つづけるべき だと おもうし、NLP (しぜんげんごしょり)の けんきゅうしゃの どりょくは むだだとは おもわない。
でも、いま かんたんに できることを、なにゆえ なんねんも さきに できたらいいな、という ひつようがあるのか わからない。
かかまぶんを すらすら よめない (げんざいは)ごくいちぶの (だけれど、しょうらいは だいぶぶんに なる かのうせいが ある)ひとたちの しんぱい なんて してられない。すなおに そう いいきれる ひとたちには、ぼくが どういう もんだいいしきの もちかたを しているかの せつめいは むずかしいけれど、かかまぶんを つかうべき りゆう として、たんに よみにくいから、というのは まったく せっとくりょくが ない。
おうだんほどうの しんごうが かわったときに おおきな おとで おんがくを ならすのは、しょうじき いって、うるさい だけだから やめてほしい。そういっているのと なにが ちがうのだろうか。
]]>あなたの文章は非常に簡潔に平易に書かれておりますので、ひらがなで読むことはさほど難しくありません
と かかれている ことは とても うれしい。
ぼく が ここ に かいている ぶんしょう は、すべて ぼく が かんがえている ていど の ないよう なので、そもそも むずかしい こと ではないし、その いけん を せいかく に つたえる ためには、とくに むずかしい たんご を ひつよう と してない というのは じじつ なの だけれど、それでも、ぼくは ちゅうい して たんご を えらんで かいている。
つまり、なんどか よみなおして、なるべく かんたん な ぶん に なるよう に かき なおしている。どうおんいぎご が まぎれて いない か ちゅうい しているし、かんじ を みないと ぼくじしん よく いみ が わからない たんご は すべて かき なおしている。まあ、スイコウ くらい は かいても いい けれど、あえて かかないように している。
つまり、みなれていない から すごく よみにくい という のは たしかに そう だけれど(わ)、がんばって よんでみても よく わからない、というような ことには ならないよう、けっこう きを つけています。
じつは「ひらがなせいかつ」には、ぶんしょう を もっと たんじゅん に かくべき ではないか、という いと も あります。
しかし、むずかしい ないよう の はなし は こんな かんたん には いかない の かも しれない。
さきの コメント で いんよう されていた 脇圭平 の ほんやくぶん は、たしかに ひらがな で よむと、よく いみが わからないし、たとえば 江島健太郎 の Kenn's Clairvoyance の ような ブログ は ひらがな だけで よんだら、さっぱり りかい できない と おもわれる。でも、これら の ぶんしょう は そもそも とても むずかしい ぶんしょう だし、いくら かんじ で かいて あっても よく いみ が わからない と おもう。ゎ
まあ、こういう ぶんしょう を すべて ひらがな だけで かくべき だ、とは ぼく も おもわない。ラテンご が よめる ひと ようの ぶんしょう は それ そうおう の ルール が あって しかるべき だと おもうし。
でも、むずかしい ないよう を、かならずしも むずかしく かく ひつよう は ない のではないか、とも おもえる。
せんもんようご の ほんやく には いろいろ と ルール が ある ので、たんじゅん に ぜんぶ ひらがな で かけば いい という もんだい には ならない と おもう けれど、たとえば 山形浩生 の ほんやく など を よむにつけ、わかりやすく ほんやく する という ほうほう は あるのだなあ、と おもう。ほんやく いがい でも、かれ のは ほとんど ひらがな だけ に しても、よめる き が する。とても シンプル で よみやすい し。
さて、平仮名 を ひらがな と かいてしまっては ことば の ほんらいの いみ、ゆらい が わからない、という してき は まったく そのとおり だと おもいます。でも、だれも 「左様なら」とか「有り難う」なんて もう かきませんし、そう かくこと を しらない ひと も すでに おおい と おもう。
それ を なげく ひと も いる かも しれない けれど、これ は こうとうきょういく、もしくは きょうようてきな はなし だと ぼくは おもう。ぼくらは とっくに こぶん が よめなく なっている けれど、なんの もんだい も ない。
かりに せいかつ を ひらがな だけで いとなむ ように なっても、われわれ が いま つかっている ていど の かんじ の ちしき が インテリゲンチャ には ひつよう だと おもうし、それは かわらない のだろう と おもう。
でも、それ を すべて の ひと に しいる のは むだ じゃない だろうか。ふつう の ひと に とっては、かんじ は あるていど よめさえ すれば いいだけ の こと じゃない の だろうか。
うーん、どうおんいぎご の はなし も かこう かと おもったけれど、ながく なったので また に します。ゎ
]]>わたなべちか の れい の エントリ を よんで、「でも、アメリカ だって、アメリカ だって、アメリカ だって、アメリカ だって」みたいな はんのう を している ようちな ひとたち に いいたい こと も とくに ない。
でも、にほん は とても すみにくい しゃかい だと ぼく は おもっていたし、いま も おもっている ので、そう おもう ひとたち や かんじている ひとたち は、せっきょくてき に ガイコク に にげてみる こと を すすめたい。
うんよく にほん で うまれた のだから、てんしょく する くらいの きがるさ で、きがる に ガイコク ぐらし を してみる と いい と おもう。ただ の ひっこし よりかは しきい が たかい かも しれない けれど、いちど やってみたら、そのくらい の しきい しか ない ことが わかる。いなか から とかい に ひっこした ひと なら わかる と おもうけれど、おなじ くらい の はなし だと おもう。
さて、にほん が すみにくい と ぼくが おもっている りゆう は いろいろ あるけれど、じじ と あわせて ひとつ かくと、ぼく は にほん の ことを、「やられたら やられぞん」の しゃかい だと おもっている こと が ある。ぼく は にほん の ことを、なきねいり が あたりまえ の こと と されている しゃかい だと おもっている。
きそ されたら ほぼ ゆうざい だし、じょうきょう しょうこ が あれば しけい だし、たいほ されて いきなり かたく そうさ で ぜんぶ もっていかれて しょうこ いんめつ の やりよう が なくても つみ を みとめない かぎり なんかげつも こうち されたり するし、かりに さいばんしょ で たたかって かっても、なんねんも やって すうじゅうまんえん とか まったく わりに あわないし、あいて は べつに いたくも かゆくも ないし、さらには ひろゆき みたいな あいて だと いくら いっても いちえん も はらわないし。わ。
イジメ に あっても いじめ られてる ほう にも げんいん が ある とか いわれるし、しごと がえり に ひがい に あっても そんな じかん に そんな ところ を あるいていた ほう にも もんだい が あった てき な こと を しゃせつ に かかれたりするし、りゆう も いえない りゆう で すべて の しごと を ほされた あげく なに に ついて しゃざい している のかも いえずに ないて しゃざいかいけん させられたり。
そもそも さいばんざた なんて ことば も あるくらい だし、じぶん の せいぎ の ため に あらそっても あらそってる こと じたい が さも わるいこと である かの ように みなされるし、なんの たたかい だろうと かかわらない ほうが ぜったいに とくだってのが にほん では もっとも プラクティカル な こと だと おもうし。
ほんと、どうしろ っていうの。これじゃ、とくめい で ひっそり いきる いがい、やりよう ないじゃん。ゎ。
って、だから みんな とくめい でしか なにかを かけない わけ だけれどさ。いいがかり とか きちがい たち の リンチ に なきねいり する ひつよう が ない と しんじられる なら、とくめい で かく りゆう は せきにん の ほうき と こくはつ だけ だよね :p
まあ、それは ともかく。
いやだ と おもってたら、がまん して にほん で くらす ひつよう は ない と おもう。
いろいろ と じじょう も あるだろうし、もちろん、だれでも が ガイコク に たかとび できる わけ じゃない だろう けれど、できる ひと は してみると いい と おもう。そと から みて はじめて よく みえる という こと も とうぜん おおいし、にほん を よく したい と おもっている パトリオット にも、おもってない ヒコクミン にも おすすめ。
あと、これは だそく だけれど、もっとも じゅうような ポイント として、ガイコク への とうぼう は じょせい には とくに おすすめ だ。とくに ざんねん ながら びぼう に めぐまれ なかった ひと や、わかさ という にほん で もっとも じゅうし されている ぶき を うしなった じょせいは、にほん なんて さっさと すてた ほうが いい と おもう。わ。
うれのこり の じょせい は、たとえば アメリカ に きて、だいがく 1ねん から すべて やりなおす という ことが よゆう で できるし、みため も こども に しか みえないし、どうせ ケトウ には にほんてき に ぶさいく か どうか は ぜんぜん わからないし、すいじせんたく の しんぱい とか しなくても いいし。わ。
まあ、にげる なんて ひきょうだ、と おもう きこつ ある だんしたち は おくに の ために がんがって くれれば いいけれど、じぶん の こと よりも しゃかい の こと を ゆうせん する やつ(わかもの と せいじか を のぞく)の いう こと は、ぼく は しんよう できない。しゃかい の ため ではなく、じぶん の ために こそ、「にげる なんて とんでもない。アメリカ なんて さいていだ。わたなべちか なんて しねば いいのに」って いってる ひと たち の いう こと は わからない でもない。しねば いいけど。わ
]]>じつは、ぼくの なかでも けつろん が かんぜん に でている という わけでは ないし、また、すぐに でる とも おもえない ので、いまも、なぜ そんな ことを するのかと、じもんじとう しつづけて いたりします、はい。わ。
かんじ を すてる ことの へいがい は、ぼくでも いろいろ と おもいつくし、かんじ を すてる ことは まちがっている と ちょっかん する ひと や、せきずいはんしゃ てきに はんろん する ひとは、その あたり は とくに いろいろ と おもいつく のだろう。まあ、ぼくが おもいつく レベル の もんだいてん は、あとで はんろん を かいて いこう と おもうけれど、そうてい される はんたい いけん への はんろん の まえに、まず、ひらがなせいかつ の ぼくなりの motive を すこし ずつ かいて いきます。
まず、だいいち の どうき は、ただしい かんじ に へんかん するのが、いいかげん しぬほど めんどう くさい、という ことです。わわ。
あたりまえ に やっている みなさん は、しぬほど めんどうな ことを している とは きづいてない かも しれない けれど、へんかん こうほ から ただしい かんじ を せんたく しながら かいてる のは まちがい ありません。かなかんじへんかん きのう が ひょうじする こうほ から、まいかい せんたく してる のです。いみ を つたえる ために つかう ことば を えらぶ のみ ならず、ただしく あてはまる かんじ をも せんたく しないと いけない。
かんじ を つかっている へいがい だと おもうけれど、にほんご には どうおんいぎご が おおすぎる ので、どの かんじ が ただしい かんじ なのか しらべながら かく わけ ですが、これは めんどうくさい と おもうし、わざわざ くろう するために かんじ を つかっている と しか おもえない。じぎゃく だいすき の にほんじん には とても あっている、と いわれると なっとく しそう だけれど。ゎ。
いまだに、ただ タイプ したら、じどうてきに ぜんぶ ただしい かんじ に へんかん される わけでは ない なんて、ほんとうに ばかばかしい けれど、それが できる なら、へんかんキー なんて もの は いらない。よそくへんかん と よばれる べんり な きのう も ある けれど、あれでも けっきょく は せんたく しないと いけない。
ていうか、せんたく なんていう、めんどうくさい こと は したく ない のです、ぼくは。そもそも、それが ただしい かんじ か どうか なんて、どのくらい いみ が ある ことなのか。
つまり、いくら かなかんじへんかん きのう が しんか しても、いまだに かんぜん には けいたいそかいせき も できない のだし、こんな どりょくは じつは どうでも よすぎる んじゃないか、と ぎねん を もちはじめた わけです。
もんだい を どりょく して かいけつ する のは たいせつ な こと だし、その ために けいさんき を うまく つかう べき なのだろう けれど、ほんとうに、それに あたいする ような もんだい なの だろうか。われわれ は もじ を はつめい する ずっと まえ から、おと を つかって communicate している のだから、ほんとうは、すべて ひょうおん もじ で かけば いい だけ なんじゃ ないの だろうか。
おと で かいたら、わかちがき する ひつよう が でてくる けれど、そうする ほう が はるかに かんたん なのでは ないだろうか。わかちがき は どこで するか という もんだい が あるけれど、これは むかし の ラテンご も そうだったし、いまの かんこくご が そうである ように、じょじょに かいけつ できる と おもう。おうべいご で あたりまえ の ように つかわれている わかちがき は ひつよう から はつめい された ひょうきほうほう で あって、ちゅうせい いこう に ふきゅう した らしい。にほんご では 21せいき の しょとう から じょじょに ふきゅう した、という ことに してみたら どうだろうか。
すべて ひらがな で わかちがき されて いたら、たとえば NLP の ひとは、にほんご Grammer Checker とか Spell Checker とか の けんきゅうに もっと ちゅうりょく できる のでは ないだろうか。って、これは ひらがな で なくとも いいね。わかちがき されてれば。
まあ、わかちがき なんて めんどうだ、という ひとも いるだろうが、すくく (SKK) を つかって ひらがな だけで かけば、わかちがき は まったく めんどう じゃない。へんかん して せんたく する よりも、はるかに かんたん なのは あたりまえ。
すんげー よみにくい って よく いわれる けれど、ただの なれ だと おもうし、ラッダイト の いうこと を いちいち きいて られないし、ひらがな だけで かいても ぼくが かいている ないよう は なんの かわりも ないので、わかろう と おもう なら、よめば いいし、わかりたく なければ よまなければ いい だけの ことだと おもう。わかりたく ないけれど、しかたなく communicate する ひつよう が できちゃった ひと は、ひとこと "English, please" って いってください。いじわる で ひらがなぶん を かいてる わけでは ないけれど、あいての ために ぼくも あゆみ よる ようい は あります。
ひらがなぶん も English も いやだ、どうしても かなかんじまじりぶん で かいてくれ、という ひとは、えーと、ごめんなさい。ほか を あたって ください。orz
うーん、まだ、りゆう ひとつめ なのに、かなり ながい ねえ。。。って、ひらがな だけ だから だろうか。ゎゎ。
]]>で、やってみたら、おもっていた よりも やれそうな きが してきて だいぶ じしんが ついたので、とうとう ここに せんげん することに します。
「ひらがなせいかつ」を すいしんする (もしくは うざいことするなあ、しねばいいのに、なんてことを いちいち おもわないと きがすまない ひとたちの きもちを さかなで することなど、そもそも いっさい いに かいさずに、ほろびゆく ちほう げんごである にほんごの、せんねんごを ほんきで うれう、もしくは うれう ふりをする) ぷろぐらむに さんか しませんか。
かけも よめも しない かんじ なんて、がくしゃに まかせて、こどもたちでも かんたんに よめる ひらがなで、もっと わかりやすく かくように しませんか。
この うんどうに さんかしたい ひとは、どうぞ かってに さんか してください。ばかだと おもうひとは、ばとうするなり むしするなり、おすきに どうぞ。
ちなみに、このうんどうは はじめた とうしょから かなりの かくどを もって、これは つづけたいと おもえて いたのだけれど、すぐに せんげんする ゆうきが もてなかった りゆうは いくつか あって、その ひとつは、いちぶの しようが あまくて、かくしんが もてない ぶぶんが あった、というものが あります。たとえば、かたかなや あらびあすうじや あるふぁべっとの しようは ゆるすのか いなか という ぎろんが (ぼくのなかで) ありました。これは、また あとで かきます。
また、げんじょうでは ひらがな だけの ぶんしょが すくなすぎるため、けんさく えんじんが うまく あつかえないだろう という もんだいも あります。この えんとりが けんさくされて よまれる かくりつは とても ひくいだろうから、けんさく されないところに いけんを かくのは もったいないと おもってる ぼくとしては、とてももったいないな という おもいは ある。
この うんどうの ほんとうの いぎが いつか りかいされて しゃかいが そういうほうこうに いく かくりつは、かがくよりも じょうちょを ゆうせんするという にほんらしさから かんがえて、ぜろ もしくは ぜろ くらいかと おもってるので、けんさく えんじんが うまく あつかえるように しんかする ことも ほとんど なさそう。(しかたないので、いわゆる 20% ぷろじぇくとで やろうかな。うそ)
ちなみに、ひらがなしか かかないように していると、にほんごの さいとを けんさく するのは とても むずかしいのだけれど、さいわい にほんの ぐーぐるの さいとに いけば、あるふぁべっとだけ たいぷしていても かんじへの へんかんを してくれるので、ほとんど せいかつに ししょうは ないし、そもそも にほんごの ぶんしょを けんさくする ひつようは あんまり ないので、だいじょうぶ。
あと、ひらがなに すると、ひつぜんてきに わかちがき しないと いけない わけ だけれど、わかちがきに かんしては、日本語を わかちがきする会 というのが あるみたいなので、そこの ほうしきに したがっていけば いいかな。まあ、たんごたんい ではなく、ぶんせつたんいの ほうが よみやすいね。えいごでも、あさごはんを break fast と わかちがきは しないし、after noon とも かかないし、むりに ChaSen/MeCab ごかんに する ひつようは ぜんぜん ないだろうと おもう。
ほかにも (いまは) かけない りゆうが あるけれど、それはそれ。わ
ちなみに、よみにくく なるだけ なのに、なぜ こんな わけのわからないことを するのかというのは、ながくなるので、また かきます。わ。
あ、ぶんまつの わ というのは w つまり (笑) という いみですので おぼえておいて ください。あと、これは どらふとだけど ゎ は (苦笑) という いみ です。ゎ
]]>たとえば「グーグル、本社キャンパスの無料カフェテリアを閉鎖」 という記事に書かれている内容も、友人に教えてもらうまで知らなかったし、読んでみて驚いた。きっと、知らない同僚もたくさんいると思う。
この記事を読んで初めて Café 5IVE が閉鎖になったことを知り、どうせだったら最後にもう一回だけ行っておけばよかったと思ったが、そんなことよりももっと衝撃的なことがこの記事には書かれていた。
グーグルの本社キャンパスにはこれまで3つの無料カフェテリアがあったが、その内、一つは昨年10月に閉鎖、そして今回、もう一つが閉鎖となったことを受けて無料カフェテリアは一つだけを残すのみとなった。
この事態を受けて残った無料カフェテリアには昼時には長蛇の列ができる状態にもなっており、グーグラーの間からは「会社は上位50位に属する高級取りのエンジニアをその他大勢の安月給のエンジニアと同じ列に並ばせているらしい」といったジョークも飛び交っているという。
さすがにこれは、興味ないので知らなかったではすまないほどの大事件だ。死活問題とまでは言わないが、その残された唯一の無料のカフェで食べない限りは昼飯代がかかってしまうし、そのカフェで食べるためには会社の上位 50位に属する高級取りのエンジニアと一緒に長蛇の列に並ばなくてはいけなくなってしまった。これは困った。
いや、まあいいのか。以前のように、晩御飯の残りを弁当にして持参することにすれば。弁当持参ならカフェまで行く手間や何を食べるかを考える手間も省けるし、時間をさらに有効に使えるし、一石二鳥かもしれない。
それにしても、最後の無料のカフェテリアというのはどこのことだろうか。Charlie's のことだろうか。No Name Café のことだろうか。 Oasis のことだろうか。 BigTable のことだろうか。 Pintxo のことだろうか。 Cafe 150 のことだろうか。 American Table のことだろうか。 Café MOMA のことだろうか。 Andalé のことだろうか。(って、ぼくが比較的よく使っているカフェテリアを列挙してみた。にぎり寿司で有名な Cafe 7 は Yelp に載ってなかったので割愛)
ぼくの本社には未だに 20 弱の無料のカフェテリアがあるように見受けられるし、もしかしたらこれはどこか違うグーグル本社の話だろうか。だといいな。
]]>本当に美味しいピーナッツバターというものがない極東の国の人々には想像もつかないことだろうが、PB&J という素晴らしく美味しいジャンクフードを子どものランチにもたせられなくなってどうしてくれるんだと全米のマミーが激怒しているし、セロリにピーナッツバターをつけて食べるのが好きなぼくにとっても、これはかなりの痛手だ。
この事件、じつは単なる事故ではなくて、工場の検査で過去にサルモネラが十回以上も見つかってるのに、そしらぬ顔で出荷していたことが発覚していて、ぼくは「どこの日本の話か」と思ったが、どうやらアメリカ人たちは「どこの中国の話か」と思っているらしい。まあ、アメリカでは、日本の偽装ブームの話はほとんど知られていないだろうから、当然か。
さて、日本だったら、とりあえず謝罪会見で社長以下三人が深々と頭をさげてフラッシュがたかれるという私刑がお約束だけれど、アメリカの場合は謝るとかそういうのはべつにどうでもいいので、謝罪会見というのはない。
そのかわり、公聴会やら裁判がつぎのニュースになって、最終的には実刑をくらって、みんな忘れる。というわけで、ニュースをてきとうにみてたら、あったあった。
なにが傑作って、問題の PCA って会社の社長のセリフが素晴らしい。
Mr. Chairman and members of the committee, on the advice of my counsel, I respectfully decline to answer your question based on the protection afforded to me under the United States Constitution.
慇懃に「黙秘権を行使します」って、なにを聞かれてもオーム返しのようにこれしか言わない。ぜんぜん悪びれない。反省のいろなんてこれっぽっちもない。「何を聞いてもすべて黙秘ですか」「はい」って。やじとかもなくて、たんたんと。アメリカちっくで素晴らしすぎる。
いざという時のために、このセリフはよどみなく言えるように練習しておきたい。
さて、アメリカらしいと言えば、以下の動画もかなりアメリカを感じさせてくれるのでおすすめだ。
要するに、ピーナッツの中にはドブネズミとかゴキブリもいたっていう、元従業員の衝撃的証言なんだけれど、内容に関しては極東の村国が何年も前に実現している程度の話なのでそれほど驚くに値しないかも知れないけれど、顔をだして声もそのままで証言というのは流石にアメリカンクオリティかな、と思う。しかも、全力で南部黒人なまりなので、字幕がなかったら何を言っているのか見当もつかない。ほんと、なんど聞いても、ぜんぜん分からない。
ちなみに、PCA のピーナッツバターをを使っていて製品がリコールになっている会社はたくさんあるわけだが、そのひとつに、日本でも知られているケロッグ社がある。ここの話が最高にアメリカらしいので紹介したい。
というのも、ケロッグ社は最近、マリファナを吸ったことがバレて謹慎をくらっている五輪水泳の金メダリスト、マイケル・フェルプスをケロッグのシリアルの広告キャラクターからはずしたと発表したのだけれど、それについての抗議が殺到。ケロッグ社に対する電話相談窓口では、リコール対象の商品に関する質問の何倍も、マイケル・フェルプス外しへの抗議が多くて、不買活動にまで発展しているという。ぜひ Kellogg Customers More Concerned With Phelps Than Tainted Peanut Butter という記事を読んでみましょう。
まあ、オバマ大統領だって若いころには吸ったことがあるって告白してるくらいだしね。「サルモネラでリコールなんて、どうでもいいんだ。マリファナを吸ったくらいで犯罪者扱いするんじゃねえ!!!」というのがアメリカの声らしい。前半はともかく、後半はぼくも同意。
]]>風のまったくない快晴の気持ちいい日はともかく、ちょっと風があったり、肌寒かったりしたら、外で食べたい理由はまったく分からなかった。というか、いまでも分からない。
でも、アメリカ人は外で食べることが好きなようだ。外で食べている人は多いし、友人と飯に行くと、積極的に外で食べようとするので、外で食べることにとても慣れた。
最近の東京では、外にもテーブルが置いてあるような欧米かぶれのカフェやレストランも増えたと思われるので、昔と比べればだいぶ一般的になったのだろうと思うけれど、それでも外で食べる方が好きだというひとはきっと少ないのだろうと想像している。そういう人から見れば、ぼく程度の人でも、たぶん積極的に外で食べようとする人に見えるんだろうと思う。そんなことはないんだけれど。
さて、今日は社内で一番新しい、人気の Big Table というカフェにランチに行った。社内のカフェが Yelp に載っているというのも凄い話だけれど、それはそれ。で、人気がありすぎていつも混雑しているのだけれど、今日は 9人の大所帯だったものだから、席がまったく見つけられずに右往左往した。
が、ほどなく空いてるテーブルを誰かが発見。みんなでそそくさと移動。当然のように、そこは外。
気温はたぶん、摂氏で 10度弱とかだったろうけれど、風がとても冷たくて、体感気温は 5度とか、そんな感じでしたかね。風邪どころか、肺炎になるっつの。いや、正真正銘の肺炎だっつの。
風を避けて建物よりの席に陣取ったもんだから、思いっきり日陰だったし、それでも、風はやっぱり感じるし、これは一体なんの我慢大会なのかと思うくらいに寒かった。
まったく、ガイジンどもは仕方ないなと、やおら、ぼくはフリースジャケットのジッパーを首までぜんりょくで締めて、熱いお茶をたくさん注いで戦かったけれど、循環器系が弱いとみえる女子の何人かはぜんりょくで革ジャンのジッパーを首まであげつつそれでもかなり寒そうにしていた。ひとりは、食事中も片手をポケットから出すことすらしないでいたくらい。
しかし、ひとりはなんと半袖の Tシャツというのもいたから、本当に笑えて仕方なかった。こいつ、どんな丈夫な小学生かと思ったけれど、よくみたら、二の腕に鳥肌立ちまくってる。でも、ぜんぜん、平気。しかも、いわゆる天才プログラマですごい仕組みをがんがん作って世界中の人を幸せにしている有名人。もうね(ry
まあ、そういうわけで、このパーティで吹雪のエルカピタンの絶壁にビバークしたら、最初に死ぬのは、やっぱり日本人のぼくなのかなあ、いや、寒がってる女子たちの方がだいぶ寒そうにしているから、ぼくはなんとか最下位にはならずに済そうだな、なんとか生き延びて、日本人もやれるってことを世に知らしめなくては、なんて思いながらランチを楽しんだ。
で、部屋に戻ってから、「さっきは、まじ、寒かったねえ」と言ったら、「寒かったねぇ」って、みんな言う。みんな、これは寒いって思ってるのに、同時に、まあ、いっか、とも思ってる。ぼくもそう思ってたんだけれど。抗生物質も飲んでるし、これくらいで肺炎こじらせて死ぬこたないだろ、と。
この感覚は、たぶん、日本の人には非常に分かりにくいと思うのだけれど、ポイントはこう。みんなでめし食ってるからといって、我慢の限界まで我慢しなくてもいい。寒くて死ぬなら、「ごめん、おれ、肺炎だから、中でめし食ってくるんだぜ」って言ってさっさと離脱すればいいだけの話。そこに躊躇とかそんなにいらない。さっさと撤退しても、寒がり日本人め、だから首相は漢字が読めないんだぜ、なんて誰も思わない。だれもなにも押し付けてないし、押し付けられてない。だから、みんなが、まあこのくらいなら我慢できるな、というところで勝手に我慢して均衡が保たれている。
というわけで、死ぬほど寒いのに外でランチを食いながら、これはレポートしておくかな、って思った。おすすめ。ないけどww
]]>というわけで、今年の抱負。一月も終わろうとしているのに。
まず、今年の最大の目標は、iPhone アプリで $50,000 くらい儲けてみること。どうすれば実現できるのかよく分からないけど、まずはなんか作って売ってみようと思う。どのくらい売れるかは努力と運次第なんだろうけれど、$10,000 くらいの目標だと簡単に実現してがっかりする可能性もあるし、そもそも $10,000 くらいの端金では家族全員でファーストクラスで帰朝するという長年の密かな目標を実行できないので、まずは $50,000 くらいを目標にしたい。で、売れたら、ファーストクラスで凱旋帰国。そういや、小室哲哉という人もファーストクラスを貸し切りとか、そういう無駄なことをして一文無しになったらしいね、なんて軽口を叩く。きっと、うちの老婆には許されないだろうけど。
つぎの目標は、ハワイで年を越すこと。はっきり言って余裕で実現する目標だけれど、そうは言いつつ何年もやれてないので、今年こそは明言して実行したい。ハワイ島かカウアイ島に行きたい。結婚前に行ったマウイ島が最後なので、マウイで老婆と懐かしむというのもあり。もう十年以上も前か。ああ、あの頃の老婆は若くて可愛かったなあ。いや、いまもアラフォーなりに十分に可愛いけれど。
で、最後の目標だけれど、これは残念ながら言えない。墓まで持って行かざるを得ない。というのも、現時点ですでに実現できないことが確定したのでw
ぼくは言ったことは必ずやる派で、やれないことは言わない派。また、言ったのにできなかったことはそもそも言った記憶はない派。もしくはそういう意味で言ったのではない派。言わずにこっそりやってできたら言う派や、言ったのにやらない派は嫌いだし、認めない。
]]>ぼくはそうは思わない。学校への持ち込みを禁止するべきではないと思うし、感情表現の種類が絵文字の数に依存するということもないと思う。
たしかに、電信のせいで手紙が減っただろうし、 電話のせいで電信も減っただろう。とても嘆かわしいことだと思う。大河ドラマを見ていると、友人には毛筆でしたためた文を届けるべきだと、いつも深く反省する。 電子メールのようなデジタルな手段では、美しい満月をぼんやりと眺めながら遠い日本の友人に想いを馳せるぼくの心のひだなど決して伝わることはない。伝わ ろうはずもない。相手のディスプレイには、どんなフォントで表示されているかすら分からない。もしも友人がウィンドウズなどでメールを読んでいたら、ほん とうにひどいフォントで表示されているに違いないのだ。心を込めて文字をしたためるぼくが、そんな汚い字で心を綴っているはずがないのに。
それまでになかった新しい手段によって変貌を遂げるコミュニケーションというものも確かにあると思うけれど、人の心はやはりとても瑞々しいものだから、だいじょうぶだと思う。いつの時代に生まれても、子どもは子どもらしいだろうと思うし、恋は恋焦がれるものだと思う。コミュニケーションの形こそ変わっても、人が心をもっている限り、大人が子どもたちに愛情を注ぐことができる限り、問題ないと思う。
新たに誕生した道具の便利さが、不自由さの克服と言う形でとげてきた過去の発展を無用のものにしてしまうということはあるし、それは、回顧趣味的な 意味でとても残念なことだとは思う。ぼくもそろそろいい歳なので、若いものが喜んですることは基本的になんでも否定したい。でも、便利さが普遍的に行き渡るこ とで得られる公平さの方が、便利さによって失われるものよりも重要だとぼくは思っているし、人間は絶滅の危機に瀕するまでその発展を止められないと思っているので、それを全肯定して考えていきたいと思っている。
ただ、学校に持ち込ませたくない理由が、学級崩壊やいじめの助長やカンニングなどを懸念するものだったら、それは理解できる。ぼくも、クラスには一切持ち込ませない方がいいと思うし、ケータイの携帯を許すメリットはまったくないと思う。
つまり、学校には持って来てもいいが、クラスには持って入れない。これでいいと思う。
ちなみに、防犯のためとかいう理由で学校への持参を許すべきだという話にはまったく賛同できない。そういう理由で持参を許すべきだと主張するような大人には、ケータイを持ったままヨハネスブルクの街を歩き続ける罰を与えたい。
子どもにケータイを持たせることで、いつ学校を出たか、さっきどこにいたかが分かっても、そんなものは防犯にも何もならない。問題があったことがいくら早く分かっても、誘拐されて殺されてしまっていたら、何の意味もないことに気づかないといけない。犯人を早く捕まえることが目的なら役に立つかも知れないが、そんなものを目的にするのは親として間違っている。問題が起きないようにするべきなのだ。子どもを大人の監視外に放り出すのは親の犯罪であって、子供の運の問題ではないということを受け入れられない社会に未来なんてなくていいし、少子化云々を議論する価値などまったくないと思う。
まあ、防いでないのに防犯と考える意識は徹底的に間違っているので、そういう間違った意識を改善させるために、防犯用のケータイの持参を禁止するというのなら、賛成してもいいかも知れない。
子どもがケータイを持参してもいいとぼくが思うのは、そうしたい理由のある親にとって、便利だろうから。それだけ。
いまのところ、我が家にはとくにそういう理由がないので、近い将来に子どもたちにケータイを持たせる予定はないけれど、子どもが「iPhone 買ってくれ」って本気で言うようになったら、たぶん、買ってやると思う。ただし、$2.99 で 5,000本くらいは売れそうだと信じられる iPhone アプリケーションを書いてデモして見せることが条件になると思う。まあ、いきなりコードを書けと言っても書けないだろうから、最初は具体的なアイデアだけでもいいかな。娘の場合は、彼氏とケータイで話さない、もしくは彼氏とは別れる、さらには毎週お父さんとデートするといった条件でももちろん可。って、何の話だっけw
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